2005年10月21日

渡辺昌人−第7回 面識という名の落とし穴

 人と人は何らかの出会いを通じて「面識」を得る。それがお互いに話を交わすとか、付き合いをするとか、ただ単にその場で袖刷り合うだけという様に色々な場合がありましょうが、いずれにしてもお互いか、或いは一方的に「顔」を覚えられるということに変わりはありません。「面識ができる」ということはそういうことだろうと思います。偶然にしろ、計画的にしろ、そのことが縁となって色々なことがお互いの間に生じてくるのですが、その人の長い人生の間にはその縁が良いことにも繋がるし、ただの縁で終わる場合もあるし、場合によっては身の破滅を招く様な落とし穴にはまる可能性すら含んでいる、そういう「面識」というものの持つ多面性の怖さについてここでは考えてみたいと思うのです。

 人間の世界の「面識」というものは、まさかと思ってはいても、その落とし穴に落ちることがないとは限りません。人間は身辺に何も起っていない時は「平穏無事といって」そう心配することはありませんけれど、極端に金に困ったり、窮地に追い込まれたりすると、ついつい怪しげな世界や、手っ取り早く金になる世界などへ近づき易くなる。また平穏無事の中にいても、誘惑という魔の手に乗ってその世界に足を踏み入れることだって全くないとは言い切れない。そんなことは絶対に無いと言い切れる人は、余程の強固な自制心がある人か、それとも一度もその様な状態に自分が置かれたことがないか、のいずれかではないでしょうか。

 世の中には不運な人やその反対に恵まれ過ぎた人がかなりおられます。不運な人は、危ないことは百も承知で、背に腹は代えられず、その落とし穴へ自ら飛び込んで行く。その反対に恵まれ過ぎた人は、退屈を持て余し、何か邪悪な欲望の捌け口をその世界に求めたりすることが必然的に多くなりがちなもの。そこでこの「悪い面識」という厄介なものに出会う可能性が増えるというわけです。また自分から望まなくても行き掛かり上、「普段なら避けたい様な人」との面識ができてしまうことだってありますよね。そういう場合の運不運の差というものは社会生活を続けていると、誰にでもあるものですが、「悪しき面識」が多ければ多いだけ、その人の人生に陰を落とすことは間違いありません。「面識」の良し悪しは、その人の一生をも左右しかねないもの。「良き面識はその人の姿が選ぶ」という諺がある如く、それは或る程度の真実を延べている様な気がいたします。身を正しく保つことによって「悪い面識」から遠ざかることは或る意味では可能でしょうね。そう思いませんか?

終わり良ければ、全て良し
W. シェークスピア(イギリスの劇作家)
posted by 人生雑感 at 01:44| Comment(0) | TrackBack(6) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月21日

渡辺昌人−第6回 善悪の思想は何の実りももたらさない

物事を善と悪に分けて考える人間特有のご都合主義は、もはや救い難いところまで人々の中に定着し、物事を考える上での混乱と錯覚を招いていると言っても過言ではない気がします。

正義とか不正義とかいう分け方と全く同じことで、誰が考えてみても、公平という観点からすれば、理解し難い考え方であろうと私には思われます。何が「善」で、何が「悪」か。何が正義で何が不正義なのか、この弱肉強食の自然界に住む人間にとって、どうしてそう簡単に分別できるのかさえ疑問ですね。一方から見れば、「善」であり、「正義」であることが、逆の方から見れば「悪」であり、「不正義」となるという具合に、このご都合主義的な考え方が根底にある限り、何の実りももたらさず、ただ混乱と錯覚を繰り返すばかりとならざるを得ない。このことは冷静に考えれば、誰でも頷けることではありましょう。

宗教戦争をも含めて、この地球上では人間達の醜い争いや、殺戮を伴う戦争が常に行われておりますけれど、これらは全てと言ってよいほど「善悪の思想」というご都合主義的な考え方が起こしている悲惨な救い難い出来事なのであって、そのことに殆どの人達が気がついていないというのか、錯誤的な「善悪の思想」の虜になっているというのかは判然とはしませんけれど、物事を割り切って考えた方が都合がいいと誰しもが考える、その傾向が「善悪の思想」を助長していったのではないかとも考えられます。割り切って考えた方が確かに楽は楽です。しかしそこが問題なのでしょうね。

「善」も「悪」も、「正義」も「不正義」も人間の勝手なご都合で、どっちにでも変化する単なる「言い回し」に過ぎないものと考えれば、そのこと自体は実体の無いものだということになりそうです。そんなものに振り回されている私達人間も悲しい存在と言えないこともありませんね。

ここまで考えてくると、「善悪の思想」は何の実りももたらさない、むしろ混乱と紛争の種をそこらじゅうにばらまいているということが本当のことだという実感が湧いてくるのではないでしょうか。私は仏教の教えというか、多面的な自然の姿に立脚した諸々の説に接している内に、この「善悪の思想」から徐々に脱却しつつある様な気がいたします。人間の知性がどこまでその域に達することが出来るか、或いはそれは絵に描いた餅なのか、私には分りませんが・・・。どうなのでしょうかね。


人間はすべて善であり、悪でもある。
極端は殆んど無く、すべて中途半端である
A. ポープ(17―18世紀のイギリスの詩人)

思考はヒゲの様なもの。成長するまでは生えない
ポルテール(18世紀のフランスの思想家・小説家)

posted by 人生雑感 at 00:45| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月16日

渡辺昌人−番外編 笑い話にもならない笑い話

湾岸戦争前、イギリスはイラクに対して膨大な兵器を輸出しました。しばらくして、湾岸戦争が始まり、多国籍軍が結成され、イギリスがイラクを攻撃することになりました。しかし、とんでもないことに、イギリス兵が使うはずの砂漠用迷彩服の在庫が全く無いのでした。調べてみると、敵であるイラクに売り渡してしまっているということが分かったのです。面白い話ですよね。

イラン・イラク戦争の時、欧米はイラクを支持し、化学兵器の使用を半ば黙認し、武器の輸出を続けました。アフガン・旧ソ連戦争の時も、欧州はアフガンに武器を輸出したのです。が、しばらくすると、今度は自らが支持した国や政府が敵となり、戦わなくてはならなくなるのです。それが湾岸戦争や9・11以降のアフガン・イラク攻撃になるのですね。自分の子供と戦う様なものです。

笑えない悲劇というのはこういうのを言うのでしょうね。愚かというか・・
救いがたい人間のエゴの見本みたいな気がいたします。 昌人の慨嘆と苦笑
posted by 人生雑感 at 03:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月12日

渡辺昌人−第5回 発言、中傷、誤解というジレンマ

昔の句に「もの言えば唇寒し・・」というのがありますよね。この句が匂わしている様に、誰かが何かを言った時、それをどう受け止めて、どう解釈するかという問題が生じてまいります。その場合、その人その人の持って生まれた資質と感性により何かとズレがそこに生じ易いのは致し方のないことかもしれません。それにその人の持っている総合的な知識と物事に対する認識の差を加えると、それは単なるズレではなくなり亀裂を起こしてしまうことだってあることは、皆様も既にご経験のあることでしょう。このことが「唇寒し・・」という句になったと思われます。  

皆様方の周りには多少似通った人が居ることは確かなことですが、一人としてそっくり同じ人は居ないこの世の中ですから、その中でものを言うことは、あなたが如何に心配りをしたとしても、多少の「誤解」や「中傷」を受けることは覚悟しなければならないことかもしれませんね。そこで多少の「誤解」や「中傷」を受けても、そのことに腹を立てる前に、前記の厳然たる事実を認識すことが大切なこと。全て相互間の考え方、ものの見方に殆ど誤差が無いなんて皆無に近いと考えた方が無難でしょうし、それほど人間の脳の働き方は各人各様で異なり、極めて複雑怪奇なものと言えます。

しかしです・・そうだからと言って、一生、人と話をしないわけにもいかないし、一言も言わずに一生を終えるわけにもいかない。「ものは言い様」なんて人は言いますけれど、これも相手次第で千差万別に変えていかなければ巧くいかない。それをこなすだけの会話上手になれるのは大変な能力の持ち主だけということになります。その発する言葉と言い様によって、僅かでもズレが生ずれば、相互間にズレが生じ、個人間なら未だしも、国家間ともなれば戦争という悲劇の原因ともなりかねません。「ものは慎重に言った方がいいよ」とよく人から簡単に忠告されたことが皆様もおありのことと思いますけれど、本人がいくら慎重に言ったつもりでも、その相手の受け取り方一つで「吉」にもなり、「凶」にもなるもの。その辺から良い悪いは別として、「社交辞令」なるものが横行することになってきたのであろうと思われますし、「嘘も方便」とか、あまり芳しくない対処方法も自然発生的に生まれてきたのであろうと思われます。

気にしていたら切りがありません。可能な範囲内で自分の発言をコントロールするのは大切なことではありますが、後はケセラセラしかありません。 

ただ「誤解」「中傷」の中には多少の「自分の至らなさ」も含まれていることを・・・。


いかなる伝道師も蟻には及ばない。
なぜならば、蟻は何も言わないからである


B. フランクリン (18世紀のアメリカの政治家・科学者) 
posted by 人生雑感 at 23:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月30日

渡辺昌人−第4回 読書と情報そして知識ほど混同され易いものはない

渡辺昌人

多くの本を読むことは広く情報と知識を得られると皆さんはお考えですか ?
世間一般ではそう思われているというより、半分常識化されているのではないでしょうか。何も私は多読することにいちゃもんをつけているわけではありません。多読することはもちろん大切なことだと思っております。しかしながらその読み方や、その中から得る情報やものの見方、考え方が即知識と勘違いし易い危険をここでは取り上げてみたいと思うのです。

読む本の選択をする時、私の知る範囲では、多くの人達は選り好みというか、自分に直接関係ある本を主に選択して読まれる傾向にある様に見受けられます。忙しい日常生活ではあるし、そうなり易いのはある程度仕方がない、無理もないと私も一応は思いますけれど、それではものの本質をほぼ正確に見抜いたり、判断するには何か心許ない気がしないでもないのです。

私が若い時にかなり密接に接触していた「暮らしの手帳」社を創立した花森安治氏に指導を受けた段階で、私の読書に関する考え方が百八十度変わったことは確かなことです。「読む本が片寄っていては害あって一利なし」という彼の裏づけを持った言葉に目を開かされたのでした。知識ということに関しても、多くの人達は取り違えた考え方をしているのではないでしょうか。知識と単なる情報とを混同しているのではないでしょうか。知識とは取り入れた情報を自分の中で十二分に咀嚼し選別したもの。情報そのものではないということをいつも頭に認識して置く必要を感じますね。

知識人とよく世間一般で言われている人の中には単なる情報伝達家であったり、百科事典が着物を着て歩いている様な人も居ますけれど、今の様に情報過多の
時代にはややもするとその影響を受け易いでしょうね。真の知識とは、その人の中で諸々の情報が消化され、練り込まれ、篩にかけられて、その人独特の考え方、見方になったものを指すと私は独断的な解釈をしております。

多くの本を片寄らずに読み、且つ目、耳、頭を使ってそれらの情報の内容を選り分けていくには、何を基準にすればよいかが問われるでしょうね。私はこう思うのです。一言で言えば、それは「自然に立脚した哲学」即ち自然界の姿に照らしたものの見方、考え方を基準にする。それ以外には今のところ見当たりません。それでも全ては人間の不完全な頭で選択するのですから多少の誤選は避けられませんが、比較的誤差の少ないものにはなろうかと思います。

これはあくまでも「私の人生雑感」です。人それぞれだとは思いますが・・・

人間が賢くなるのは、経験によるものではなく、
  経験に対処する能力に応じてである


G. B. ショー (19―20世紀のイギリスの劇作家)


posted by 人生雑感 at 01:16| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月15日

渡辺昌人−第3回 理解という言葉ほど誤解を増すものはない

渡辺昌人

「何々を理解できる」という言葉ほど、うかつに使うと後々困ることになることが多いのは、そのこと自体に無理があるからでしょうね。例えば、「あの人のことは私がよく理解しています」などと人が言っているのをよく聞くことがありますけれど、「理解というこんな難しいことを」いとも簡単に・・と思うことがあります。それには「ある程度までは」という前置きが必要なのではなかろうかという気がするんですね。

こんなことを何も目くじら立てて取り上げなくてもよさそうなものだと皆さんは思われるかもしれませんが、これは重視に値することだと私には思えるからなのです。しかし私の見るところ、多くの人達は、言う方も聞く方もそこまで気配りはしていませんし、気軽に言い、気軽に聞き流している場合が多い様に感じます。

では、「何々を理解する」ということの意味をここで少し考えてみようではありませんか。

人間や物事を理解するということが如何に至難の業かということが私の様に歳という甲羅を経てくると、骨身にしみて分ってくるのですね。そう簡単なものではないことが・・です。ある程度までは何とかですが・・全体を理解するなんてことは不可能に近いことが分ってまいります。男女ですらお互いに何も分っていないのに、ましてやその人間達が引き起こす諸々のことなど全面的に分る筈もありませんが、「理解する」とか「そんなことは分っている」とかいう言葉が世の中に横行しているのも事実。そしてあっちこっちですったもんだの争い事が起こり、皆が慌てふためいている光景もよく見かけます。

「理解する」という言葉を軽々しく使ってしまうが故に、「誤解の渦」が四方八方に広がり、紛争の基をつくってしまうのですね。ごく小さな世界では夫婦間、大きな世界では国家間に火花が散るというわけです。理解なんて神様じゃああるまいし出来るわけない、そう思って、人に接し、物事に当たれば誤解は最小限度に抑えることができるのではないでしょうか。

半分も理解できないのに軽々しく近づき過ぎる。その辺に火種が転がっている様に私は感じます。全てに一定の距離を置き、ものを見るということは難しいことではありますけれど、常日頃の心がけとしては意外と大切なことではなかろうかと思います。「理解」は「誤解に近し」と思っているだけでも救われる。「理解」とか「期待」などというものほど誤算の多いものはありませんよね。くれぐれもご注意なさいます様に・・・

大変偉そうなことを書いてしまいました。ごめんなさい。これは私の「人生雑感」ですのでお許しを・・・

 「君子はこれを己に求め、小人はこれを人に求む」  中国の論語

立派な人はすべて自分を反省するが、つまらぬ人間は他人のせいにするの意。


posted by 人生雑感 at 02:25| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月08日

高橋尚嗣−第1回 杉原千畝に魅せられて

6000人の命のビザ発給の地を訪問
思い出のボランティア体験記(高橋尚嗣)


● 杉原千畝元領事の存在を知りボランティアを決意

 毎年この終戦記念日を迎える頃になるとひときわ私の思いは強くうずき出す。いつだって心のどこかに張り付いていて忘れ去ることはないことなのだが・・・・。
今はすでに元領事を知る人も多くなっているが、元駐リトアニア日本領事館の領事で、ナヂに追われ殺戮寸前にあったユダヤ人に、当時、ドイツとの間に日独軍事同盟があったことから、日本政府は許可しないという命令を無視し、わが身を省みず独断で亡命のためのビザを発給し6000人の命を救い、日本の人道の歴史にこの人ありと世界に知らしめた、気高い人物のことである。

私がこの偉人の存在を知ったのは、数々の名ストーリーを残している。日本テレビの「知っているつもり」という番組である。(近々に番組終了予定と聴いて大変残念に思っているが)千畝元領事自身、「私は人間として当たり前のことをしたまでだ」と淡々と語っている。
外交官として国のいかなる重責・使命があろうとも、(「人の命は地球より重い」と言われるように。)人の命と秤にかけたら明白なことをしたことにある。しかし、それをわかっていても、出来る人はほとんどいない。外交官というエリートの立場にあって、それを棒に振るばかりでなく、社会運動家・大杉栄の甘粕憲兵大尉よる絞殺事件のように、いとも簡単に暗殺するといった右翼思想の強かった軍治政権下で、国の命令に背いたものは、命までも危ういことが考えられる時代であったからだ。

現代にあっても、先の中国は瀋陽の日本領事館での失態がある。大使・領事館や外交ナンバープレートの専用車の中は、日本の国内と同じで治外法権という立場にあって、当然の如く侵入を拒否できるにもかかわらず、勇気と常識を持たず傍観してしまった。
一部始終を上司に仰ぐ、事なかれ主義の軟弱で頭でっかちな体質は、「人道小国」と世界の笑いものである。どうしたらこういった体質を是正できるのか。根本を正さねばなるまい。

杉原元領事は、リトアニア以前にも、日本が1932年に中国東北部に満州国を作り上げ、ハルピンに勤務していた1935年、満州国の外務大臣の椅子を直前にして辞め、日本に帰ってくるといった人道を貫いている。理由を尋ねる幸子夫人に、「日本人は中国人に対してひどいことをしている。同じ人間だと思っていない。それが我慢できなかったんだ」と語っているのと比較し、あまりの格差に言葉も無い。私の子供時代も、そういった風潮が残っていて、子供ながらに、どうしてそういうことになるのか理解できず、悲しい思いをしたことがしばしばあった。

TVで放映されたころ、私は不条理なサラリーマン社会にやる気をなくしていたということもあったが、会社に見切りをつけ、何でもよいから、世のため・人のためになることを探していたので、この人の何かに近づき関わりたいという、やりがいを求める気持ちが高まるのを抑えることは出来なかった。1993年、停年まで10年弱をのこして退社し、ボランティア活動に入った。バブルがはじけ、折しも、リストラのはじまるタイミングだったため、もう半年待てば1000万円の退職奨励金が出るから待て、というアドバイスも耳に入らなかった。有給休暇も60日を未消化のままだった。
それ以上に重大な何かを感じていた。そして、杉原千畝顕彰財団設立事務所に走り、氏の長男の弘樹氏の秘書となった。深く理解してくれた妻も幸子夫人の講演のお手伝いをすることになった。一切の経費もなく、退職金と預金で賄う、まったくの手弁当のボランティアである。
*エドモンド・ロスチャイルド卿との出会い
幸子夫人がロンドンで、ロスチャイルド卿が副会長を務め、エジンバラ公を名誉ゲストとして挙行されるの格式の高い世界ユダヤ救済会の60回記念のパーティーに招待され、その時に持参する杉原千畝元領事を紹介する英文のパンフレットづくりからのスタートだった。パンフレットの印刷代から同行する3人のホテル代金や飲食費、フライトチケットなどの支払いも快く引き受けられた。ついで、幸子夫人の書かれた「6000人の命のビザ」の改訂版の出版に際して、巻頭言をユダヤ人のトップである、エドモンド・ロスチャイルド卿にいただきに行くという重大な使命があった。ロンドンにはファッション・ビジネスの仕事で何回も出かけていたが、シティという金融街には縁がなく、通り過ぎるだけであった。ここにエドモンド・ロスチャイルド氏の本拠地があった。ロスチャイルド卿に面会できるなど考えられないことで、かなりな著名人でもそういった経験を持つ人は世界でも稀有である。弘樹氏とその友人他4名で、緊張した面持ちで約束の時間よりかなり早く到着したため、正面玄関で時間をつぶす必要があった。ロスチャイルド・バンクの玄関正面には先祖のロスチャイルド・ファミリーの大きな肖像画が掲げられていた。入り口で手荷物のセキュリティ・チェックを受けて応接間に通される。
完全なチェック・システムである。なにせ、ユダヤ人社会のトップ中のトップであるからガードが固いのは当然のことである。イギリスではロスチャイルド銀行が、過去の経済救済で日本の中央銀行の日銀に当たる働きを任されていると後で聞き驚かされた。この人に日本の勲一等瑞宝章が贈られていることを知る人は少ない。関東大震災他、何度となく日本の国が資金を必要としたときに援助をしてくれたことに対しての報勲という。

ここで、予想していたものと大きく異なっていたことが2つあった。1つ目はロスチャイルド社の社屋である。つとめての質素さゆえに神々しさが漂う日本の皇室に似て、世界一の財閥の本社としては豪華さという点は一切なく、質素といったほうが正しいたたずまいであった。十二分の信用を持つ人はなんらの虚勢も必要としないということなのだ。
2つ目はロスチャイルド卿その人である。

威厳に満ちた近寄りがたい人と想像していたが、まったく予想ははずされた。がっしりとした体格に柔和な笑顔をたたえ、太いもみ上げと口ひげを動かしながらわれわれの訪問をねぎらってくれた。通常より小さいサイズの名詞に優雅な花文字でその人の名が輝いていた。双方の紹介があって、ロイヤルファミリーである頭取が、ロスチャイルド卿を「ミスター・ロスチャイルドです」と紹介し、私たちに「エディ」と呼ぶように言われていますと聞かされたのにも驚かされた。財団の基本的なあり方についてご指導いただいた後、「6000人の命のビザ」の再販本に巻頭言をいただきたいと申し入れると、頭取が何か言おうとするのを制するように、すかさずに「大変光栄なことです」と2つ返事で引き受けていただけた。「3日待ってください、ホテルに届けます」と、なんと、今すぐに書いてくださるというのだった。

「ホテルの電話番号は?」、とっさに聞かれてわからないと答えると、すぐに受話器を取って秘書に調べるように伝えた。そして秘書から電話が入るとさっと身軽に、頭取より早く電話に出て、「OK!ありがとう!」と数字をしたためて受話器を置いた。これにも驚かされた。あの世界の財界のトップが自ら身軽に動いて秘書にも「サンキュー」というのだ。なんという謙虚で民主的な行動だろう。これが一流という人の姿なのだと感動させられた。
もうひとつ、英国式のティー・セレモニーを体験した。ロスチャイルド氏が自らティー・ポットに紅茶をとお湯を入れ、一人一人に「レモンとミルク、どちらがいいか」「お砂糖は?」と丁寧に聞いて入れてくれるのだ。主が自身の手から最高のもてなしをするという、対人関係を融和するセレモニーをなくしたことが雇用者と労働者の対立を高めてゆき、フランス革命の遠因になったという人もあって、なるほどと得心したのである。

今回はじめての英国訪問という、財団設立支援をしてくれる人のための、観光案内をしながら待つ間に、銀行からロスチャイルド卿の消息を尋ねる電話が2回あったが、約束の3日後に卿の巻頭言の原稿が届けられた。英文に翻訳して持参した幸子夫人の原稿に、丁寧に細かい字で数箇所に赤字で訂正を入れたものと一緒に。万歳!心の中で思わずそう叫んでいた。めったなことではいただけない原稿である。杉原千畝元領事の功績あってのものだ。私のここまでの役割は完遂できたのだ。世界平和を願うこの本によりいっそうの輝きを添えてもらえたのだ。ありがとう。エディ!様。ロンドン郊外にあって、ご子息の運営する世界の花と木を集めた百万坪の植物園がある。その一郭にある邸宅の書斎にこもり、外部と遮断して書き下ろしてくださったということが後でわかった。

イスラエルではノーベル賞に匹敵するヤドバシェム(外国人で国のために貢献してくれた正義の人に与えられる)賞を贈られるほか、杉原公園も創られて国を挙げて大々的に偉業をたたえ、感謝の意を表明している。
日本では名古屋のショッピングセンター、株セントラルパークの代表取締役であった伊神孝雄氏の根回しで、竹下登元首相、近隣3県の知事のご努力でふるさと創成資金を使って、元領事の出身地の岐阜県八百津町、霧が立ち込め、神聖な気配のする高地に「人道の丘公園」が作られている。伊神氏は日本の外務省が中国に創設したハルピン大学の一期生で教鞭もとられた杉原千畝元領事の後輩で、深く元領事を尊敬し、第二次世界大戦に敗戦後、名古屋駅前に身寄りのない浮浪者たちに、寝食はもとより仕事まで世話して多くの成功者を世に送り出している傑物で、弘樹氏も深くお世話になり、常に感謝の念を私にも語っていた人である。当時、外務政務次官の立場にあった鈴木宗男氏は、杉原千畝元領事の名誉回復を主張する小渕元首相の肝入りの下で実現させているが、このたびの出来事はまったくこういった善行に反するもので遺憾である。また、杉原ファミリーにとって、名誉回復はされても失われた時間と財は少しも償われてはいない。


●命のビザの発給された旧日本領事館のあるカウナスへ

こういった環境を想定してしまうから、自己の持つ良識を自信を持って実行することが出来ない人たちが多いのではないか?できないところ、そこを決断できた人が英雄になるということだ。外交官の職を解かれてからの家族のご苦労は落差が大きい分、精神的にも職業的にもさまざまな影響を残してきている。父親の偉業と現実の生活実態との間で、何とかしてその子にふさわしい立場を築きたいとする意気込みが空回りして失敗を招くことも多く苦労されたが、アメリカに財団を設立し、講演や英文の本を出版するなど活躍し、日本でもNPOを立ち上げようとして私にも協力を依頼されてきていたが、残念なことに昨年末、千畝元領事の下に昇天されている。

いろいろと誤解されているところはあるが、父親譲りであろうか、抜群に英語がうまく、智恵もあって、次々とビジネスのアイディアを閃かすことがあったが、早くから良いスタッフに恵まれれば成功したことが多かったのではないかと残念に思われる。おしゃれで美しく、度胸が良く、浪漫的な大物女性の幸子夫人に似て、陽気で楽天的なところがあり、優しく正直で警戒するところがない。酒好き、女好き、ビジネス好きといった明治の豪傑タイプのおおらかなところもあったから、相手を間違えると騙され、失敗することも多く、生き方に不器用なところがあった人といえる。その分、美智夫人はご苦労されたが、よく出来た人で、辛抱強く弘樹氏を支える一方で、子供の教育に努め、立派な社会人として活躍させている。釣り名人である美智夫人の実母を知る人は、その人柄の良さを疑う人がいないほどで、この人の影響が強い。宝飾の仕事でタイ在住の美智夫人の長男は、千畝元領事の孫らしく誠実さと立派さで、元領事によく似ているところがあって驚かされるときがある

そして、いよいよ、私と弘樹氏はロンドンを後にして、コペンハーゲン経由のSAS(スカンジナビア航空)でバルト海に面し、バルト三国と称されるラトビア、エストニアと並ぶリトアニア国の首都ビルニュスへ。

ブラザウスカス大統領府とスレヴェジェシス首相を訪問し、ビルニュスに杉原千畝氏をたたえて造られたスギハラ通りを視察する。ビルニュスから旧首都であった、あの忘れてはならない命のビザの発行された旧日本領事館のあるカウナスへ向かうこととなった。カウナスへは列車ではなく自家用車で行くことになった。というのも杉原千畝氏の甥である、仁君という青年がカウナスに下宿していた関係で下宿先の友人の車でビルニュスまで迎えに来てくれていたからだった。

リトアニアはタイと同じように、無抵抗主義という表現が当たっているのではないかと思うが、非常に柔軟で何度となく他国からの侵犯があっても、むやみな抵抗をせずに、常に計画的に独立開放をめざして準備するという沈着・冷静で平和の価値をよく知っている賢い民族といえる。したがって、町並みはどこも傷つかずに残っていて、教会などは旧くからのものが多く、建築の歴史がよくわかるので、建築家にとっては見学のメッカともなっている。旧ソ連崩壊前に一番先に独立開放を実現したのもこの国で、自国貨幣と国語への切り替えもすんなりと行い、ODAの対象国にもならない経済レベルの高さで再出発するという見事さである。そのための資金をソ連に隠して保全してあったという緻密さがある。長身の人が多く国技はバスケットボール。旧ソ連邦時代のバスケットボール・チームの中核になっていた。私たちも親善のため、帰国後にリトアニアの女子高校生のバスケットボール・チームを日本に招待し、各地の高校生チームと対戦していただいた。整備された日本の道路や建物に驚き、食品売り場の陳列にも美術館のようだと感嘆の声を上げていた。圧巻はディズニーランドで、口々にこんなすばらしいところがある日本にまた来たいと喜んでもらえた。しかし、一番は日本の同世代の若者同士が交流できたことという一言がうれしかった。

旧ソ連時代は軽工業地区としてソ連邦全域に家電製品・酪農製品などを生産して供給する担当地区であったため、何もかも大型過ぎて現在は国のレベルに合わないため、全産業的に縮小を進めている真最中であった。美味しくヘルシーなライ麦パンやハム・チーズが豊富にあり、郊外に出れば、ラズベリーやマッシュルームも手軽に採取できる気持ちのいい生活がある。特産品は今年秋の流行色であるアンバー(琥珀)を始め、雑貨品もスマートなヨーッパ感覚で値ごろな東南アジアプライスの品揃えで満足させてくれる。しかし、隣国のチェルノブイリの原子力発電所の事故の後は、こんなに離れているのに、数年にわたってキノコが生えてこなかったと聞いて、その恐ろしさを改めて実感した。

美しさを代表するトラカイ地方の風景を名は知らずとも絵葉書などで目にしたことのある人が多いかと思う。湖面に浮かぶ島の中の古城は現在、博物館になっていて、世界中の博物館を見てきていた私には、小さいけれどもそのコレクションの繊細さはコレクターの感性の並々ならないところを知ることが出来た。こんなおとぎの国のように美しい国で、領事の去った後に、ビザが無いばかりにナヂに捕われ、大勢のユダヤ人が惨殺されたのだ。鉄製のベッドに縛りつけられ、水牢に浸けられ、ガス室に閉じ込められた、死体から流れ出る油を燃料に使い、細菌の人体実験にするなど狂気の果ての現場が今もカウナス郊外にあるホロコースト記念館に保存されている。
思わず目をそむけ、いたたまれず、幾度となくその場を抜け出したい衝動に駆られたが、この目で捉え、一人でも多くの人に伝えるべく、耐えるのがやっとのことであった。このような凄惨な歴史を全く信じたくないが、これは歴然たる事実なのである。

10月というのにバルト海の冷風が氷雨となってたたきつける日、ビルニュスをたってカウナスに向かった。仁君の友人の車は中古のベンツで立派に見えたが、数十キロ走ったところ、見渡す限り四方に何も見えない大平原の中でエンコした。大変なことになったとびっくりしていると、よくあることなので驚かないでくれといって、1時間ほどあちこち修理して走り出したのでほっとした。日本の中古車がほしいといっていると仁君が通訳した。カウナスまでの間に2台のエンコ車を見かけた。どれも欧州車の中古車だった。だから人気がないのだという。日本では販売前に手直ししているから品質が維持されているという、以前に聞いた話がここで理解された。

広大な平原と沼ばかりの道を、かれこれ3時間、それも120km以上の猛スピードで走って、ようやくカウナスにたどり着くことが出来た。カウナス市内にはホテルと名のつくものは数軒しかなく、設備も整ったところが少ないという。私たちは仁君のいる広い下宿に収まった。財団設立後は連絡事務所にする考えがあり、少し広めを探していたから、そこにはゆったりとした居住性のよさがあった。ロマネスク様式のカウナス大聖堂のある中央道路に通じる広い坂道を1kmほど上り詰めたところに白樺林の公園があり、カウナス市内とネムナス河の流れが見下ろせる高台にあるヴァイズガント通り沿いにアパートはあった。あの劇的なビザ発行のあった旧日本領事館のすぐ近くにあって、毎朝散歩で立ち寄れる近さに在り、高級住宅地区になっていて、アメリカでプロのバスケットボールをしている選手の立派な豪邸が新築中であった。また、国立カウナス農業大学の広大な敷地があって、ここの教授が後に横浜で開催された環境学会に参加したいという依頼があり、予算の取れなかった事務所に代わり、我が家をホテル代わりに、航空券も寄付して喜ばれることになる。また、スポーツ医学も盛んなところで、特定の部位の筋肉を強化するのに、たんぱく質を集中的に送り込む技術が完成されていて驚かされた。この小高い丘をアパートから東に3分ほど歩くと切通しになっていて鉄道をまたぐ陸橋につながる。陸橋の脇にある石段を下りてゆくと、市場があって、毎朝さまざまなものが売られている。野菜・肉・魚・キノコに蜂蜜・花など何でも売られていて、よくここで買い物をした。

旧日本領事館には5−6所帯が同居していて、最上階のペントハウスには領事館に使えていた女性が高齢だが元気に生活していて面会することが出来た。優しい弘樹氏は訪問のたびに生活費の補助にとお小遣いを手渡してきていたというが、昨年他界されたと聞く。
現在この建物は国に買い上げられ、記念館として観光名所となっている。子供の成長を祈念して植えたという3本のシンボルとなった杉の木も、今は大木となっていたが、写真と同じ位置に植えられたままで当時をしのぶことが出来る。日当たりのよい市内を見下ろせる庭は、なだらかな傾斜になっていて、幸子夫人が植えたという林檎がたわわになっていた。毎朝散歩するとあちこちの家の道端にも小振りだが味の悪くない実がたくさん落ちていて拾う人もいない。

●「ありがとう!センポ・杉原。私たちはいつまでもあなたのことを忘れない」

ここで、杉原領事がどんな想いでビザを発給していったのかと、57年前に思いを馳せる。
幸子夫人からその当時のいきさつや様子を何回となく聞かせていただいているが、酪農国で美しい平原と湖の国のこの丘に、幾多のユダヤ人たちが命のビザを求めて連日殺到していたのだ。ポーランドに侵攻したナヂの虐殺から逃れて、難民受け入れを表明したカリブ海のキュラソー島に脱出するにはリトアニアとロシアを通過するビザが必要だった。それらの国もまた通過先の日本のビザが必要とあってのことであった。「杉原さん、ビザをください!」「お願いします!」と。領事という国を代表する公人と、杉原氏個人の立場の間で心が揺れ動いて、悩み抜いた末でのことだったと考える。事情を聞いた子供の弘樹氏の「かわいそうだよ、助けてあげようよ」という声と「私が助けてあげましょうと強く促した」という、気丈な幸子夫人の強い一押しがあったことを自ら話してくれている。杉原領事は妻と子供たちに降りかかるであろう事後の災難にも想いを馳せ、憂慮し、ためらいがあったと思われるが、ここで勇気ある決断をする。歴史に刻まれたのだ。体制に従順な日本人には国際的に知られるような人道の人は少ない。

決断してからは、一心不乱に、食事もそこそこにビザを書き続けた。当時のビザはすべて手書きでこまごまと記入したから、一人分でも手間がかかる。それを数千人単位となると並大抵のことではなかったのだ。日本政府からの帰国命令とドイツからの退去命令で時間も制限され寝食もままならず、ひたすら書き続け、ペンの折れることもしばしばで、ぐったりと倒れ込んで一息つくシーンが何回もあったという。そして、カウナス退去の日、領事の乗り込んだ列車の窓辺に取りすがって、ビザを求めるユダヤ人たちと書き続ける領事、ソロリソロリと列車が滑るように動き出す。一枚でも多く書いてあげたいという想いとは裏腹に、あせればあせるほどに思うに任せない筆の走り、列車が加速する。「許してください。もうこれ以上書けません」「みなさん、さようなら」。見送る残された人たちから突如として起き上がる喚声。
「ありがとう!センポ・スギハ〜ラ!」「私たちはいつまでもあなたのことを忘れない」――――。杉原幸子著「6000人の命のビザ」に記されたあの劇的なラストシーンである。

それから28年後、閉ざされていたこの出来事が大きくクローズアップされた。「いつまでも忘れない」この民族の約束が実現されたのだ。センポ・杉原を探しに探し続けた甲斐あって、やっと元領事に巡り会えたのだ。命のビザを受けてロシアに入国し、シベリア鉄道でウラジオストックから敦賀に入り、横浜と神戸から中南米のキュラソー島へ亡命し、生き延びることが出来た。その人たちとその子孫たちは戦後すぐに、杉原元領事にお礼を言いたくて消息を尋ねて、日本の外務省に何度も調べに来日していたからだった。しかし、外務省からはそういう名前の該当者なしの一点張りで探してもらえなかったのだ。当時のリトアニアの領事といえば明らかにわかることなのに。元領事が外国人にわかりやすいように千畝という名をSEMPOと呼ばせていたからセンポ・杉原という名で問い合わせしたことを理由に照会しなかったと思われる。

元領事が帰国後に退任させられ、生活のために得意のロシア語を活かして、川上貿易でジューキミシンをロシアに売り込んでいた頃であったから、国内に居ることも少なかった。たまたま帰国しているときに、新しくイスラエル大使館の参事として赴任してきた、カウナスでビザ発行交渉の代表の一人となっていて助けられたシムキン氏が、情報を得て元領事に面会を求めてきたのだ。「これを覚えていますか」大事そうに抱えて見せられたのはボロボロになったビザで、紛れもなく元領事の発行した手書きのビザだった。固く握手をしたままで涙を流し「ありがとうございました」とあとは声も無く告げられたのだ。その知らせはイスラエル国家を挙げてのセンセーショナルな話題として世界の新聞・TV・雑誌で報道された。残念だが、これは日本ではなく、世界中(のユダヤ人社会)にこのニュースは伝えられていった。「恩人が見つかった!」「センポ・杉原が生存していたぞ!」と大騒ぎとなったのだ。
本当に外務省はわからなかったのだろうか? わざと教えないという意地悪さはなかったのだろうか? 当時、杉原という霞ヶ関会の要人は三人しか在籍していなかったというのに。未だに理解できないところである。

この問題は単なるユダヤの人々の問題だけでなく、イスラム、キリスト、神道、その他の社会においても再び起こされてはならないことである。他山の石とする強い自覚が21世紀以降の地球人に求められるところである。
相手がすることは全て間違っていて、自分のすることが全て正しいとする考え方を改めない限り、平和は訪れようも無い。平和はお互いに相手の個性を尊重しあう、そこから意思が通じ合い平和はスタートする。
最後にもう一度杉原千畝元領事の言葉を味わってみよう。 「私は人間として当たり前のことをしたまでだ」
気負わず、淡々と覚悟を決めて、良心の導くままに・・・・
偉業とはそういった中でなされるものなのかもしれない。
posted by 人生雑感 at 21:49| Comment(1) | TrackBack(1) | 高橋尚嗣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渡辺昌人−第2回 限界という名の弁解

渡辺昌人

「もうこれ以上は限界だなぁ」と人は言い、「もうやめたぁ」と人は言う。
これはもう日常茶飯事。あなた方も何度かはそうつぶやいたことがおありでしょうね。えッ無い? そんなことはないでしょう。

私も含めて殆んどの人々は常に「限界」という名の「弁解」をしながら、物事を途中で放り出してしまうことが多いのではないでしょうか。そうだからと言って、私達が特別に怠け者だというわけでもありません。ここで言いたいのは、人間って本当に弱いものなんだなぁ、そうなんだなぁということなのですね。むしろ物事を一生懸命やっている人ほど、色々な壁に突き当たり、「限界という名の弁解」を度々するのではないかと思います。ただここで注目したいのは、それが自分に対する「弁解」なのだということを、その人自身が如何に自覚しているかどうかということなのですね。そのことの如何が次のステップを踏み出す時に大切な基点となるからです。見事な発明、開発や、素晴らしい活動を持続している人達は、概ねそのことを自己の「弁解」だとよく自覚しているので、自らの弱い心に鞭を当て、普通の人が成し得る限界を超えてしまうのであろうと思います。

常に自覚がない「弁解」が先立つ人は、逆に挫折が多くなり易いというのもまた何となく頷ける様な気がいたしますし、私も含めて、ごく普通の人は「限界という名の弁解」を繰り返しながら、自分の一生を終えて行くのかもしれません。じゃあどうしたらその「自己の弁解」を少しでも良い方向へ転換できるかということをここで考えてみるのも決して無駄ではないでしょう。ではこんな風に考えてみたら如何でしょうか。先ず出来るだけのことをやってみる。そして限界を設けたくなる自分の弱さを自覚したら、あぁ、これが自分の「限界という名の弁解」なんだ、自分は普通の人間なんだと素直に思えばよいし、そして、もしもですよ、普通の人間では終わりたくないとあなた自身が心から願うのであったなら、「弁解」をやめて前へ進めばよいのではないでしょうか。

「限界」に挑戦するということは、「限界」を設けないということと同じですから、その人の向上心が強ければ強いだけ、自然にそうなるということではないかと思います。しかしながら、物事はあまり突き詰めて考えない方がよいと私は思いますし、人間のやることには常に何らかの「弁解」の余地は空けて置くべきものとも考えます。余程の偉人か鉄人でもない限り、辛くなると、つい私達は「限界」を設けたくなる。そう珍しいことではありせんよね。

ただそうなった時、それが「限界という名の弁解」なんだということさえ分っていれば、それでいいんです。弱きもの人間、この自覚さえあれば・・・・・

ここで私も「限界だぁ!」と叫び、筆を折ることにいたしましょう。


 脱皮できない蛇は滅びる

 F.W ニーチェ(19世紀のドイツの哲学者)

posted by 人生雑感 at 21:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渡辺昌人−番外編 私の戦争体験

あの忌わしい東京大空襲を体験する 

忘れもしない1945年の5月23日、午前2時頃。空襲警報のけたたましいサイレンの音で家の外へ飛び出した。早稲田大学へ入ったばかりの私は、立川にあった軍需工場での勤労奉仕を終え、22日の夜中の11時頃帰宅し、着の身着のままで疲れた体を横たえていたところであった。

アメリカのB29爆撃機の毎晩の様な来襲で、殆んど眠っていない頭は朦朧としていたが、無意識的に体が動いたのである。五反田の高台にあった私の家は、その時は未だ黒々とした立ち木に囲まれて黒いシルエットを描いて健在であった。真っ暗な空にはキラキラと機体を光らせた数機のB29が我が物顔に低空飛行で頭上に飛来する。急に轟音が鳴り響き、真昼の様に地上が明るくなった。耳をつんざく様なすさまじい爆裂音が付近一帯を包むや、瞬く間にその地域一帯が紅蓮の炎に包まれていく。家族が何処へ行ってしまったのかさえ探す暇もなく、私は無我夢中で我が家に水をかける。次の瞬間、強い爆風が体に当たり、焼ける様な熱さが全身を包む。

どれほど意識を失っていたかは定かではなかったが、気がついた時は、衣服は裂け、全身から血が流れ、左手先は消し飛び、右手の指は無残にも砕け散っていた。全身の各所から血潮が流れ落ちる。「死にたくない」という気持ちが猛烈に私を襲う。這う様にして立ち上がると、記憶にあった三キロ先にある病院まで無我夢中で歩いた。

途中は炎の海。風は竜巻の様に激しく吹き、滝の様に炎が道路上を物凄い勢いで流れて行く。目に入る光景は地獄そのもの。赤ん坊を抱いた女性の丸焦げ死体が、消炭の様に軽くなって道路の上を風に流されて行く。あちこちには無数の黒焦げ死体が足の踏み場もないくらいに重なる様にして横たわっているのだった。自分が重症を負っていることさえ忘れるほど、それは無惨な姿であった。

やっと病院にたどり着いたところまでは憶えているのだが、そこで意識は途絶えてしまう。気がついた時は、廊下に布を体にぐるぐる巻きにされて、まるで陸揚げされたマグロの様に寝かされているのだった。出血多量で意識を失っていたのである。廊下全体は足の踏み場もないくらいに無数の負傷者がただ転がされているだけであった。或る人は全身が焼け爛れ、何処が顔なのかも分からない。無数のハエがその体に群がり、蛆がそれらの人々の全身に群がるように蠢いている。殆んどの人は破傷風の痛みで泣き叫び、死臭が鼻を突く。医者も看護婦も僅かしか居らず、手が廻らない。終戦の日まで、毎日毎日、次々と死んで行く多数の老若男女をただ呆然と、悲しみながら見送る日々が続くのだった。

薬と言えば「アカチン」という消毒剤だけ、麻酔薬も何も無い無惨な日々である。自然に生命力のある者のみが生き残る、ただそれだけであった。8月15日の終戦の日まで自分の意志とは全く関係なく、ただ運命の采配に任せるしかなかったのである。死を免れたのが不思議に思えるほどの状態であったと言えるであろう。その時点から私の人生観は百八十度の転換を始めたと言っても決して過言ではない。

その後、色々な紆余曲折を経て現在の自分があるのだが、究極の死線を越えて初めて得られる貴重な諸々のものを頂くことが出来たことを、今では感謝しているのである。如何なる教科書もこれに勝るものはなかった。広島、長崎の原爆の死傷者も同じ苦しみを味わったであろうが、戦後マスコミに脚光を浴び、世界中から人々が哀悼に訪れるだけ、少しは救われてはいるだろう。しかし、東京その他の都市に於ける空爆の犠牲者は国はもとより、海外の人々には全くと言えるほど関心が薄いのである。

東京だけでも20万人を超える死傷者が出ている。全国ではどれほど居るかさえ分からない。「負けた国」の惨めさを私なぞ痛切に感じているが、果たして現在の日本人のどれほどの人達がそれを感じているだろうか。あまりにものんき過ぎるのではなかろうかと思うことが私にはしばしばあるのである。痛い目に会わねば駄目かとも思う毎日ではあるが・・・国際情勢に無関心ではいられないのもその為かもしれない。
posted by 人生雑感 at 21:33| Comment(1) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

渡辺昌人−第1回 催眠術とは暗示で脳を支配する手品

渡辺昌人

催眠術師が大勢の人に術をかけて眠らせたり、色々な動作をさせて人を思うように操るのを皆さんご存知ですよね。術をかけられた人が平常なら考えられない様なことをしたり、恥ずかしい格好をしたりしているのを見て、あなたはどの様に感じられますか。その術そのものに驚きますか。それとも人間というものの姿に、恐ろしさを感じますでしょうか。私などはあの姿を見せられる度に、人間というものはこうも簡単に操られるものかと、面白いより先に恐ろしさを感じてしまいますね。人間の脳がわずかばかり発達しているだけに如何に暗示にかかり易いかがよーく分るよい見本。人からかけられる暗示も要警戒ではありますが、何といっても恐ろしいのは「自己暗示」です。

ここではそのことについて少し取り上げてみたいと思います。これほど無防備にかかり易いものはないからですね。よく世間では、猜疑心や警戒心の強い人は催眠術にかかり難いと言われていますけれど、私の知り合いの催眠術師の言によりますと、その逆もあるということですからあまり当てにはなりません。

それほど誰でも「暗示」には弱い。その暗示の中でも「自己暗示」には特に弱いとされています。自分で自分に暗示をかけるのですから警戒心は全くゼロ。

子供でも大人でも「お前は駄目な人間だ」と自己に何度も何度も暗示をかければ、よほど精神的に強い人間でもない限り、だんだん自信を失い本当に駄目な人間になっていくこの恐ろしさ。ましてや自分で自分にかけるマイナスの暗示などは、それが知らず知らずの内に私達はうっかりかけていることが多いのですから全くもって始末が悪いのですね。その暗示の方向次第で自分が良くも悪くも変わっていくことを自覚することの重要さは何度言っても言い過ぎではありません。世の中は暗示で一杯。しかもプラス思考の暗示が少ないだけに用心が肝要ですよね。いやはや知らず知らずの内にお説教じみた話になってしまいました。ごめんなさい。もうこの辺で筆を置かないと、もの言えば唇寒しになりそうです。私の人生は毎日毎日が自己暗示との闘いです。皆さんは如何ですか? 自己暗示はプラス方向に…自分の人生を豊かにするために。


   若くして学べば壮にして為すあり。

   壮にして学べば老いて衰えず。

   老いて学べば死して朽ちず。
 

        幕末の学者・佐藤一斎の言葉
posted by 人生雑感 at 21:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 渡辺昌人 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。